(現在参加しているライティングコースのためにかいた文章をこちらで共有)
背が人並み以上に高い人は、独特の疎外感を常に心に抱くものなのだろうか。 この作品の主人公、ユロ(ジャック・タチ、1907-1982)は身長191㎝。身体をいつも前にかがめ、申し訳なさそうにしている。なんとなく世界から浮いた感がある。ベージュの帽子に膝上丈で短か過ぎるベージュのコート、短いこげ茶のパンツからにょきっと縞々の靴下が突き出している。ことばにするとちぐはぐだが、服装の色遣いは地味ながら上品なアースカラーであり、彼の姿は目にとても優しい。 ユロは、無職で、古くてつつましいアパルトマンの最上階(エレベーターがないから一番住みにくいところ)に住んでいる。ユロがフラフラと生きていることを、社会的な成功者であるユロの妹の夫は怪しからんと思っている。義弟たちはユロに職を紹介したり、隣家の独身女性と仲を取り持とうとしたり、ユロを「まともな」大人にしようとする。
ユロの住む、開発前の古びた地区とは真逆の新しい開発地区に、妹夫婦が息子のジェラールと住んでいる。最先端のデザインらしい四角い宇宙船みたいな家だ。この家に置かれているものはモダンで無機質である。最先端とはいえ、どうにも座りづらそうなソファやスツールが置かれ、キッチンは棚から砂糖を取るにもどのボタンを押せば棚が開くのか、まごまごするような空間だ。
ジェラールは自由のない我が家で退屈しきっている。でも口やかましくなくこどもの気持ちがわかるユロ伯父さんが訪ねて来ると、こどもらしい笑顔を取り戻す。
監督でもあるジャック・タチは1958年当時、多くの批評家たちから「テクノロジーの発展に人間が翻弄され、社会がどんどん無機質で人間らしさをなくしていくことを厳しく批判している」といわれたそうである。だが、本人はその推察は少し違うと主張する。タチは「デザインは人を動かす意図をもって作られるものだ。だから私はそのことを映画で表したかった。」とBBCのインタビューの中で言っている。つまり、モダンな建物はわかりやすく誇張された一例であってすべてではない。例えば中世の城にだってユロが住んでいる古びたアパートにだって「設計者の意図」と言うものがあり、そこに住む人々は多かれ少なかれその設計者の作った動線によって「動かされて」いるのだ。だから妹家族の機械的で殺伐とした家を描く一方で、ユロの古いアパルトマンでは、長い年月をかけて増改築を繰り返したあげく動線がややこしくなり、部屋にたどり着くまでが冗談みたいに長いことも描いている。そのことをタチの観察眼と十八番であるパントマイムを要所に利かせながら、そこに生活する人間たちが素のままで持っている可笑しみを映画の中で再構築することに成功している。タチがこのように建築家の「意図」に敏感なのは「規格外」の身長に生まれついたことと無関係ではない気がする。
しかし、タチが自らの口で「近代化への批判などしていない」と微笑みを浮かべいったことを鵜呑みにしてはいけない。タチの映像はことばよりもはるかに饒舌である。映像は明らかにユロの古くて住みにくいアパルトマンの方に好意的だ。そこには観る者たちの古い記憶を呼び起こす、人と人とのふれあいや会話がある。不格好なはずのアパルトマンは、柔らかなアースカラーの色調でとても優しい建物に映る。その温かみはファーストシーンで戯れる犬たちの情景や、古い市場のシーンにも繰り返され、私たちの多くが大切にしている昔懐かしい思い出にある情景とリンクする。
だがその一方で、妹家族のモダンな家も決して醜い建物ではない。自分の映像作品という、絵画でいえば額縁の中に当たる世界に醜いモノを置きたくない、そんな映画製作者としてのタチの美学ゆえではないだろうか。あの住みにくそうな、合理性だけの詰まった異様なコンクリートの箱でさえも、その色合いは何とも美しい。玄関から門まできっちりと通り道がデザインされていて、どんなに急いでいてもその遠回りな動線をたどる人々の姿は映画の中で繰り返され、それは増幅され、最後には爆発的な可笑しさを誘う。タチの映画の中で建築物は雄弁なストーリーテラーを担っているのだ。