向田邦子についてコースの演習として短い文章を書いた。結局提出課題としては使わなかったけれど、せっかく思いを込めて書いたので、ここに残しておこうと思う。
わたしが最近読んだ文章の中でこの表現はすごい、と思ったのは以下の文章だ。
「宅次の父の葬式のときもそうだった。
厚子は新調の喪服を着て、涙をこぼすというかたちではしゃいでいた。ほうっておくと、泣きながら、笑い出しそうな気がして、宅次は、
「おだつな」
とたしなめるところだった。
おだつ、というのは、宅次の田舎の仙台あたりで使うことばで、調子づく、といった意味である。」
‐ 向田邦子 短編「かわうそ」(『思い出トランプ』より 1983年 新潮社)
目次
ひらがなの多用
「とき」「かたち」「ほうって」「たしなめる」「ことば」などひらがなを多用することで柔らかな印象を与えている。家庭内のできごとについての描写であり、小難しいことばよりも平易で誰にでもわかる表現で書くことにより、「日常」の雰囲気を作っていると思われる。
読点で目を止めさせる
「ほうっておくと、泣きながら、笑い出しそうな気がして、宅次は、」と読点をこの文に多用することで、義父の葬式に浮かれるという子供じみた立ち居振る舞いに隠れた、妻の人生に対する真摯さや思いやりの欠如に読者の目を留めさせ、考えさせる。
性格の対比を「方言」という言葉だけで際立たせる
さらにさすがだなと思うのは、夫が方言(=本心の吐露)でたしなめようとしたということだ。この「方言」のひとことで、その時の夫の心情がしのばれる。自分の故郷に父親の葬式のために帰る。自分が身近な人の死を静かに悼んでいるのに、妻の非日常に浮かれている様子を非常識と思い、心がないと感じている。方言が出そうになったのは、それが夫の本心だからだ。「笑い出しそうな気がして」ということばの裏に見えるのは、夫がもう妻の本性にうすうす気づいているということだ。それなのにこの夫は結局、声に出してたしなめてはいない。口にすることであいまいだった真実が確定してしまうことを恐れているのだろう。
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と、コースで提出するレポートのための準備として書いた文章なので、書き方がちょっと硬くなってしまったが、向田邦子はやはり鋭すぎてコワイ。この奥さんのような人は現実にもいそうに思えてきてぞっとする。人生のすべてを遊びのようにふざけて過ごしている人、身近な人を自分に都合のいい嘘でだましてもそれで罪の意識に震えることもなく、そのために最も残酷な形で相手を傷つけるような人だ。
ネタばれになってしまうので内容は書かないが、タイトルも本当に秀逸だと思う。
また向田邦子のドラマを見たくなってきた…