神田伯山のYouTubeチャンネルで「連続物」なんていう舞台がアップされているのを偶然見かけた。Netflixで日本やアメリカやカナダの作品をビンジ(「過視聴」と訳されていたが、連続番組を立て続けに見ることを意味する”binge watch·ing”から来ている)するのにも飽きてきたので、(講談ってビンジして面白いものなのだろうか)とふと思い、試してみることにした。
わたしの伝統芸能とか、古典とのつながりは極々細いもので、海外在住の初めの頃、一時期だけ時代小説、特に山本周五郎にハマって多少時代関係用語?を覚えたこと、あとはドラマの『タイガーアンドドラゴン』で落語の話をいくつか覚えたくらいか。まあほぼビギナーレベルだ。
ところが、神田伯山の講談は日本語字幕がついていて、聴いて意味がすっと浮かばないことばも漢字で読むとわかる。マクラといわれる導入の話はいつものテレビのバラエティで見かける伯山の雰囲気のままでなじみやすく、また本筋の話が始まっても、まずは時代劇でなじみの深い大岡越前の話から入るから、まるで知らない人の集まりにたった一人なじみのある人がいてホッとしたような気分になる。
話を聞いていて思ったのは、残虐な罪人の話という触れ込みではあったが、「エグい」話をNetflixやら他の動画で観てしまっている現代人のわたしにとっては、残虐さのレベルは全く大したことはなかった。それなのに、たった一人の講談師が登場人物を演じ分けるその様につい引き込まれてしまう。伯山を通してお金持ちの商人や店の小僧、博打に明け暮れているならず者、一人娘の美しいお嬢様等、登場人物の様子が驚くほど目に浮かんでくる。話の筋は至極単純だし、伏線らしきものも想像がつく。でも、やはりハラハラしながら先を見たくなってしまうのは、その語りの面白さと、何百年もの昔から人々がこの話芸を共有している、同じ話を自分も共有体験できるという喜びとの二重の楽しみがあるからなのだと思う。
また各話の終わりに続きを見たくなるような「予告編」みたいな口上がついてくると、(昔の人もこの口上にワクワクして、ついつい翌日も演芸場に足を運ぶことになったのだろうか)などと過去の市井の人々の気持ちに思いを馳せるのも一興に感じる。
またもう一つ、人々が神田伯山の講談にハマる理由って、ひょっとしたらもうみんな見たくない類の映像まで求めなくてもつい見させられてしまう現代の動画事情に辟易しているところも追い風になっているのかも知れない。講談を聞くという行為は全くの受け身ではなくて、自分の想像力を使って聞く側も前のめりに話の中に入っていくものだから、その経験自体が面白く感じられるんだろうな。一緒に場を作っていくような感じだ。
それにしてもこんな長い話を頭に入れて、自分の語りそれひとつだけでわたしたちを昔の世界に連れて行ってくれる、この伯山という人の芸に対する覚悟と努力に敬服する。
(リンク:https://youtu.be/sqoYQPotTlU )