新年のご挨拶
新年あけましておめでとうございます。2020年も素晴らしいことが皆さんにたくさん起こりますように!
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2019年はモントリオールで最初の目標、「永住権獲得」が達成できた。私達家族にとって、とてもいい年になったと思う。
2020年の抱負についても、ここに書いておくことでまた振り返りができるから、やろうと思っているが、実は今回は去年に書き始めてまだ終わらせていなかったトピックがあったので、まずはそちらについて書いてしまおう。(笑)
チャンネル切り替え名人の話
高校の同級生で、昨日のテレビの話題になると、友人たちがどのチャンネルについて振っても、必ずコメントできる子がいた。
「ねえ、昨日の9時からのXXX見た?」
「見た見た〜、あのたけしの衣装、笑えたね〜!」
「あ、ねえ、昨日のXXXのドラマ見た?」
「見たよ〜、あそこで告白とはびっくりだよね。」
「ねえねえ、ベスト10見た?」
「あ、見た見た!また一位だったじゃん、すごいね。」(時代がわかるねw)
ある日、「なんでどの番組のことでも答えられるの?」と日頃の疑問をぶつけてみたら、なんと全部の番組を5分ごとにチャンネル変えて見ているという。
彼女にとっては、自分の好きなものをじっくり見ることよりも、次の日学校で誰とでも話を合わせられることの方が大事だったんだろう。その話を聞いたときは、(世の中には不思議な努力をする人がいるな)と思った反面、彼女がそこまでして人と共感することに必死なのは、実は一人ぼっちになることをものすごく怖がっていたんじゃないかとちょっとしんみりした。
5分ごとにチャンネルを変えたら、5分で見られた箇所の話題しかできないんだけどね。
言語切り替えもチャンネルに似てるよね
そんな大昔のことを久しぶりに思い出していたのは、最近友人と子供の言語教育とか、母国に対する一体感についての話をしていたからだ。モントリオールに住む日本人の友人たち、それぞれ子供のいる母親たちだ。私達の子どもたちの、母国との一体感とか、帰属感はかなり薄いよねっていう話。
例えば、うちの娘たち。マレーシアにいた時は、他の普通の中華系マレーシア人と同じ様に、中華小学校で中国語で教育を受け、中学に入るとほとんどの一般家庭の様にマレー語の中学校に行った。とはいえ、うちでは二人ともマレー語が弱かったので、公立のマレー語中学はやめて、授業はマレー語だけど課外活動などは英語でできる私立の中学を選んだ。一方で、自宅ではほぼ日本語で話していた。こうなると、1つ1つの言語にかける時間、密度はどうしても薄くなっていく。だからうちの子たちは、英語はそこそこ、日本語は話し言葉はほぼほぼネイティブだけど、語彙が少なめ、中国語は読み書きできるが知識は小6止まりという状態になっていた。
言語の理解度=帰属意識の強さ?
言語と帰属意識はイコールではないけど、例えばマレーシアにいたとしても家庭で日本語を話している間、私と時間を過ごしていた間に、マレーシアへの帰属意識が育つことはなかったように思う。うちの子たちの場合、マレーシア人としての経験は、ほとんど家の外、学校や親族との交流で培われていたと思う。つまり、うちの子たちは、マレーシア人と在外日本人のチャンネルを切り替え切り替えしながら、その場の状況に合わせられるように育ってきた様に思う。
そのため、マレーシア人のグループの中にいると、もちろん楽しいし、マレーシア人としてわかり合える部分も多くあるのだが、心の中で、100%そこに帰属してはいない感覚をいつも持っていたようだ。これは、私の想像とかじゃなく、夏にマレーシアと日本に一時帰国して、カナダに戻った後に娘たちが「実はなんかお客さんみたいな気分をどこにいても感じてしまう」というのを初めて聞いてちょっとショックを受けた、ということがあったからだ。
海外育ちでも日本人の要素
一方で、私という媒体を通して日本の文化や言葉を知らないうちに身に着けていった娘たち。だけど、やはりそれも100%ではない。何しろ、下の子の場合は1ヶ月以上継続して日本に滞在した経験もない。上の子は8ヶ月から3歳の誕生日まで日本にいたから、日本語の基礎がしっかりしているように思う。でも、それ以降はずっとマレーシアなので、彼女たちにとっての日本は、このすっかり日本人離れしている私の文化、ということになる。
それでも、面白いことに、あの30分以上約束に遅れるのは当たり前のマレーシアで、待ち合わせの時間に着いていないと気がすまない次女や、旅行の段取りをしっかり組んでから出かける長女などを見ていると(私より日本人ぽいなあ)と思うこともある。
弱みは強みの裏返し
一つの言語や文化になじむ時間がモノリンガル、モノカルチャーの人よりどうしても短くなってしまうから、総合的な文脈理解力でいうとちょっと弱くなってしまう面がある。
ただ、だからといって一つの言語や文化に対する知識が足りないことを悲観的に捉えすぎる必要はない。というのは、比較することによってその言語や文化に対する理解が深まることって、よくあるのだから。
日本で生まれ育って他の言語を知らない人と比べたら、海外育ちの日本人は語彙が足りないかもしれない。
でも、2つ以上の文化・言語を比較できる強みも捨て難い。
例えば私は日本語を教えている。その時に役に立つ知識や経験というと、普通日本語の知識や語彙力が大事と考えがちだ。でも、それと同じくらい、自分が英語を学んだから得られた、日本語と英語の違いに対する深い理解が、日本語を客観的に説明したい時にとても役に立つことに程なく気づく。
また、私自身も自分がフランス語を勉強しようってなった時、フランス語しか話せない人に習いたいとは思わなかった。できれば他の言語を学習した経験のある先生のほうがいいと思って探した。言語を学ぶ苦労を理解している人でないと、言語を教えるのは難しいと思うからだ。実際に、フランス語しか話せない先生にたまたま当たったことが2回ほどあったけど、先生に初級の生徒の大変さを想像する力が足りないために、生徒として置いてきぼりにされる感じを覚えた。
そういう風に、他に比較できる対象を知っている人の方が、そのものに対する理解が深くなると思っている。そして、比較できる文化を持っているからこそ、自分の文化をリスペクトできたり、特徴をはっきりと意識したりできる。
娘たちは、中国語や英語がわかるからこそ、日本語の独自性や、他の言語との共通性がわかっている。だから、自分がマレーシア人としても、日本人としても「足りない」という風にマイナスにばかり捉えないでいてほしい。
複眼を持っていること、多様なリソースを持っているから、君たちは自分とは違う文化や立場の人に対して寛容になれるし、他者の気持ちを想像することもとても得意だ。世の中に、君たちみたいな多様性を自分の中に持っている人がどんどん増えていったら、世界はもっと住みやすい場所になるはず。
だから、マレーシア人、時々日本人、所によりカナダ人的な自分を、楽しみ、誇りを持って生きていってほしい!
本日のカバー写真はLionel Groulx駅から徒歩で行ける、ケーキがきれいで美味しいカフェ、Patrice Pâtissier 。
クリスマスに長女が自宅に招いてくれたので、こちらのケーキを持っていった。シュークリームもケーキもとっても美味しかった。ブランチメニューを出しているらしく、カフェ席の人たちがとっても楽しそうに食べているのを見て(今度はブランチしてみよう!)って心に決めたw